竹原市のブドウ栽培は、明治3年(1870年)に、高祖父母の祖父母にあたる、神田甚藏(じんぞう)が伊勢参宮の旅の帰途で立ち寄った大阪南河内村の農家から「甲州」というブドウの苗を持ち帰り、神田甚藏の次男の神田信助(のぶすけ)が庭先の畔に植え付けたことから始まります。これが同時に、広島県のブドウ栽培の始まりでもあります。明治8年には甚藏の長男、神田愛助が西神田家(神田精果園)を創立し分家し、次男神田信助が本神田家(神田葡萄園)を継ぎます。明治30年頃には、神田家を中心に約3反歩のブドウ園が形成されます。この頃は、先述した甲州に加え、カトウバという品種が主に栽培されていました。

明治38年にブドウ園は病害に侵され収穫はほぼ皆無で廃園に追い込まれ、さらに翌年には神田信助が病に倒れ、竹原市のブドウは存続の危機に陥り、若干16歳の信助の長男、神田善太郎が神田葡萄園を引き継ぎます。

神田善太郎は、新品種の選定に尽力し、明治41年に、千葉県の錦果園、松戸覚之助から買い付けた「ナイアガラ」を普及させ、神田豊吉(神田精果園)や河田磯吉らとともに、約1町歩のナイアガラぶどう園が形成されました。

神田善太郎は、明治の末期頃にはキャンベルアーリーを導入し、更にはその芽状変異種(突然変異したもの)の大玉キャンベルを自ら発見し、ブラックキングと銘打って販売、普及させるなど活躍し、竹原の栽培面積は20町歩に達し、神田善太郎を初代組合長に、竹原葡萄組合が誕生します。

大正15年には、竹原のブドウ栽培面積は約40町歩に達し、昭和6年には、100ha近いブドウ園が形成され、この頃には、1日三千箱内外のブドウの山が、明神埠頭へ山の如く積み上げられ、全国各地へ汽船で出荷されていました。

昭和15年には、ワインの壽屋(現サントリー)の竹原工場が稼働を始めるなど更に発展し、戦前の最盛期には、栽培農家は250戸にも達しました。

昭和17年8月台風に伴う高潮により、堤防が決壊し、流れ込んだ潮が、ブドウ園40町歩を枯死させ、さらに終戦末期には、生産調整を強いられ、ブドウの栽培面積は約半分に、生産量は20分の1まで減少するなど、またしても、竹原市のブドウは存続の危機に陥ります。

昭和22年、農協法設室初代ぶどう農長に神田等(神田精果園三代目)が就任し、昭和36年には、それまでは木箱で輸送されていたブドウを、ダンボール容器での出荷に一早く切り換えるなど組合の改革を進めます。

昭和47には、神田等の子、神田成祥(しげよし)が、国立果樹試験場、安芸津試験場の岸技術員から、今後飛躍が期待されるピオーネの有用性を説かれ、ピオーネの栽培を始めました。

昭和50年代後半には、早逝した成祥の後を継いだ神田精果園5代目神田一秀が、今では主流になっていますが、当時は、「香りや味が落ちる。」とタブー視されていた、種無し処理をしたピオーネを、県内で初めての系統出荷を始めました。

昭和63年には、同市、貞森ぶどう光園の貞森秀敏とともに、神田一秀が、ビニールハウスでの温室加温栽培を開始しました。

平成6年、広島果実連盟の岩原技術員の呼び掛けで、会長に貞森秀敏、副会長に神田一秀が着任し、ピオーネ研究会(現在の竹原葡萄部会)が発足しました。上記の二軒は、国立果樹試験場で開発された新品種アキクイーンの現地試験を担当し、竹原市が、このアキクイーンの全国初の産地となりました。

現在の竹原市の大規模なぶどう農家の殆どが、系統出荷をやめて、直売所での直接販売する形態に切り替えており、栽培品種はシャインマスカット、セトジャイアンツを軸とした皮ごと食べられる品種をメインに栽培している農家が多くを占めています。また、栽培している品種数も、当園の約50品種を筆頭に、数種〜約30品種を栽培している農家が約40軒程あり、店舗毎で、小売店ではなかなかお目にかかれないような多様な品種を購入することができます。